石屋のないしょ話

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三条河原

東海道五十三次の起点であった三条大橋がかかる三条河原こそ、京都の処刑場として、血なまぐさい匂いが絶えることがなかった場所です。 死体をさらしたり捨てたりする所、つまり死者の怨霊や恨みつらみが集うスポットだったのです。 戦国時代、とくに織田信長と豊臣秀吉の時代は、鼻そぎの刑をはじめ、見せしめのための残忍な刑罰が行われました。 一五九四(文禄三)年、天下の大盗賊・石川五右衛門の釜茹での刑もここで行われました。 当時の記録が公卿の山科言経の日記に克明に記されています。 それによると、五右衛門が処刑された日、五右衛門の他に十一人ものスリが釜茹でにされたとあります。 そのうちの一人はまだ子供だったというから当時の刑がいかに厳しかったのかがわかります。 また、一五九五(文禄四)年には、豊臣秀吉の甥で養子となった秀次が、秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹を命じられて自刃し首を三条河原にさらされました。 それだけでなく、秀次の正室・側室・侍女・子供まであわせて三十九名もが無実でありながら三条河原で処刑されています。 処刑は秀次の首塚の前で五時間かけて行われ、その惨さに人々は涙し、秀吉の残忍さに恐れをなしたといいます。

一六○○(慶長五)年、関が原の戦いで破れた石田光成も、六条河原で斬首されたのち、この三条河原に首をさらされています。 幕末の動乱期になると、三条河原はいっそう血なまぐさくなり、尊王派浪士の手によってこの河原で斬首された者は数しれません。 新撰組局長・近藤勇も江戸の刑場で斬首刑にされ、首は送られて三条河原にさらされました。 もちろん、今では処刑場の面影はどこにもありません。 恋人たちの憩いのスポットとなり、この時期には納涼床が設けられ大賑わいしています。 しかし、ここ三条河原の石は、流された多くの血と涙を吸い込んでいるのです。

石屋のないしょ話でした・・・。