石屋のないしょ話

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一文橋

月日が流れるのは早いもので、もう6月です。 今月は京都府向日市と京都府長岡京市の境目を流れる小畑川かかる橋で、西国街道が小畑川を渡る地点にかけられている「一文橋いちもんばし」についてお話します。 

西国街道は山崎街道とも言い、京都と大宰府を結ぶ山陽道のことで、江戸時代には西国街道と称しました。 小畑川は、西京区の追ノ坂から流れ出て長岡京市を南北に流れ、大山崎あたりで桂川に合流します。 大雨が降ると、洪水が出る暴れ川で、室町時代にはすでにたびたび洪水を出して住民を困らせていたと伝えられています。 一文橋も洪水の度に流され、流されるとまた新しい橋を作ることになり、莫大な費用が幕府の負担になっていました。 そこで、室町時代には、橋のたもとに橋守を置き、通行人から通行料として一文ずつ取って、橋の架け替えの費用に当てたのです。 そこから「一文橋」の名前がついたと言われています。 

だが、通行料を惜しんで払わずに渡ろうとする者は、その場で斬り殺されたそうです。 その犠牲者の人魂が夜な夜な飛び交い、「橋を渡してくれ」と叫ぶようになり、地元の人々を脅かしたそうです。 しかし、橋守のなかには、貧しい者が通行料を払えずに渡ろうとするのを黙って見過ごしてくれる者もいたそうです。 そんな心優しい橋守の一人に半兵衛という者がいました。 一説には「知らぬ顔の半兵衛」という言葉は、この橋守の名前から生まれたという話もあります。 現在も一文橋は小畑川にかかり、橋のたもとの欄干には一文銭が象られた石碑が建っています。 全国で初めてお金を徴収した有料道路の発祥の地です。

石屋のないしょ話でした・・・。