- 石屋のないしょ話
大泥棒・石川五右衛門
洛東の名刹・南禅寺の壮大な三門に上がると「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金・・・」と、つい見得を切りたくなります。それほどに有名なこのセリフは、天下の大泥棒・石川五右衛門のものです。
しかし、その南禅寺の三門は応仁元年(1467)までに消失しており、復興されたのは江戸時代になってからの寛永五年(1628)なので、石川五右衛門(1557〜1594)が生きた時代には形をとどめていなかったはずです。石川五右衛門が、この三門を棲み家としていたとか、「絶景かな、絶景かな」の名セリフも、すべては歌舞伎のために初代並木五瓶が書き下ろしたフィクションなのです。
石川五右衛門は、一説には三好氏の臣・石川明石の子、あるいは遠州浜松に生まれ、のちに河内国石川群の医家・山内古底の家に寓したと伝えられています。太閤秀吉の活躍と同時代に悪名を轟かせたのが運の尽き・・・というべきか。
秀吉は、前田玄以に命じて五右衛門一味を捕らえ「釜茹での刑」という刑罰史にも残るほどの残忍な処刑を実行しました。
文禄三年(1594)のことです。三条大橋南の河原に大きな釜が据えられ、その中には湯がぐつぐつと煮えたぎっていました。そこに五右衛門ら、悪党総勢十人と、五右衛門の幼い子一人が入れられました。五右衛門は我が子を救おうと、釜の中に仁王立ちになって子供を両手で高く抱え上げていましたが、群衆が取り囲む中、最後には力尽き果てて親子もろとも釜の底に沈んだそうです。昔の風呂釜のスタイル「五右衛門風呂」とは、このときの釜の形に似ているところから名付けられたものです。
五右衛門は捕らえられ、刑場に引かれていく途中、下京区寺町四条下ルにあった大雲院の前を通りかかり、同寺の高僧・貞安上人に諭されて感泣したといいます。それが縁で、今も大雲院(現在は円山公園内、祇園閣とともにある)に五右衛門のお墓があります。墓には院号のある戒名が刻まれていますが、これは罪人では異例のことだそうです。
石川五右衛門の墓石のかけらを懐に入れておくと、盗癖が治るとの言い伝えがあります。盗癖に苦しみ、それを試す人がいるのか、五右衛門の墓石にはあちこち削り取られた跡があるそうです。
ご参考までに・・・。