石屋のないしょ話

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西陣織

西陣織といえば、京都の代表的な伝統産業です。東は堀川通り、西は千本通りに、南は中立売通りあたりから北は船岡山の麓あたりにはさまれた一画を「西陣」と呼び、古くから高級絹織物の生産地として繁栄してきました。今月は「西陣」についてお話します。 

「西陣」の名は、一四六七(応仁元)年~七七(文明九)子年の一○年間にわたって繰り広げられた応仁の乱に由来します。 応仁の乱は、八代将軍足利義政の時代に、室町幕府管領の細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が戦った内乱で、山名宗全の邸に西軍の陣が置かれたので、その地が「西陣」と呼ばれるようになったのです。

しかし、京都の織物産業は西陣の誕生よりも古く、平安時代以前、渡来系豪族の秦氏が織物職人の集団を組織し、織物業を営んだときに始まっていました。 平安時代には宮廷に織部司が置かれ、織手たちに高級織物を織らせていました。 鎌倉時代になると、織手たちは宮廷から独立して西陣付近に住み、織物町を作りました。 だが、応仁の乱が京を焼け野原にしたため、織手たちは現在の大阪の堺に一時避難しました。 応仁の乱の後、織手たちは西陣跡に戻り、織物業を復活させました。 これが、西陣織の始まりとされています。 以後、西陣織は豊臣秀吉の庇護を受けて繁栄し、江戸時代のはじめには最盛期を迎えました。 この頃から、西陣織は全国でも最高級の織物として名を馳せました。 

しかし、江戸中期以降は二度の大火に見舞われ、西陣の大半が焼失。 幕府の贅沢禁止令や他産地の追い上げで衰退を余儀なくされたのです。 衰退した西陣を再び興したのは、明治になって都が東京に移ってからのことでした。 都が移ったため、京都府は東京に負けない活気を京都に取り戻そうと、様々な分野で海外技術を取り入れました。 西陣織にも高い海外技術を取り入れるため、技術研修生を何人もフランスのリヨンに送り込みました。 現在は、着物の需要の減少や、職人の高齢化などで生産者も減ってきていますが、西陣織工業組合や、西陣の若者たちが次世代に技術を引き継いでいくよう努力されています。

石屋のないしょ話でした・・・。