- 石屋のないしょ話
東寺・西寺
7月に入る前から猛暑日が続く今日この頃ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
節電しなくてはいけませんが、我慢して熱中症にならないように気をつけてください。
ところで、かつては新幹線で京都駅に着く前に見事な五重塔が見え、京都人は「京都に帰ってきた」と実感したと言います。
残念ながら京都駅が改装されてからは見えなくなりましたが、まさに東寺は京都のシンボルなのです。
しかし、西寺が見当たらないのはどうしてでしょうか? 今月は東寺があるのになぜか西寺が存在しない理由についてお話します。
実は、昔は西寺も存在したのです。 桓武天皇は、平安京の入り口に羅城門をつくり、その左右に国家鎮護の官寺として東寺と西寺を建立しました。 現在の東寺は、ほぼ平安京の時代のままだと言われていますが、広大な境内には豪壮な金堂・講堂・南大門などが並び建っています。 西寺も東寺とまったく同じ規模でつくられ、五重塔も東寺と左右対称に天空に向けそびえ立っていたのです。
八二三(弘仁一四)年、嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏に委ねました。 東寺は唐で密教を学んで帰国した空海のもと、日本で初めての真言密教の寺院となり発展を遂げ、民衆の信仰を集めました。 いっぽう、西寺は守敏のもと官寺として鎮護国家にあたり、創建当初こそ栄えましたが、九九◯(西暦元)年、落雷によって焼失しました。 その後再建されましたが、次第に衰退の途を辿りました。 一ニ三三(天福元)年に再び焼失し、廃寺となり以後再興されることはありませんでした。 なぜ、東寺が栄えて西寺は衰退してしまったのでしぃうか? 当時の空海は真言密教を開き、全国の土木事業や灌漑に尽力し、書にも優れた英雄でした。 民衆の弘法大師信仰は現在に至るまで根強かったのです。 空海は東寺の修築を行った時、天皇や公家の庇護を仰いで木材を懸命に集め、修復に全力を注ぎました。 平安時代以後も歴代天皇や権力者達は空海への厚い信仰心から、東寺が廃れないようにと復興に尽力したのです。 とくに、南北朝時代の後醍醐天皇は東寺復興に力を注ぎ、足利尊氏は東寺を本陣としたほどです。 いっぽう、西寺は守敏に任されましたが、平安朝の官寺のまま推移していきます。 官寺なので経費は官庫で賄われましたが、平安朝の半ばには国家財政は破綻していました。 そのため、国分寺や官寺の多くは九世紀後半には廃絶し、西寺もその運命を辿ることになったのです。現在、西寺のあった場所は公園となり、西寺跡の石碑がひっそりと佇んでいるだけです。
石屋のないしょ話でした・・・。