石屋のないしょ話

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神話の中の石について

「日本の神話中には、石や岩に関する言葉や話がたくさんでてきます。

「古事記」には、イザナギとイザナミの兄妹神が夫婦となって日本の島々や神々を生んだ後に、死んで黄泉国(よみのくに)に行ったイザナミをイザナギが呼び戻しに行く話があります。黄泉国のイザナミにはウジ虫がたかっており、これを見たイザナギは驚き恐れ逃げ帰ります。イザナギはイザナミとその軍勢に追われながらも、やっとのことで黄泉国とこの世との境界の比良坂に辿り着き、ここを千引岩(ちびきのいわ)でおし塞ぎ、岩をはさんでイザナミと問答して別れました。この黄泉の坂を塞いだ石はチカエシノオオカミ、またの名をヨミドノオオカミと名づけられています。

塞の神(さえのかみ)とも呼ばれ、境界や道の民族神とされている道祖神は、ほとんど石が神体としてまつられています。この千引岩の話は、石が道の神であるという古代人の観念を示すものといえます。この種の話は、死の起源を物語るとともに、石を不死あるいは永遠の象徴とみなす古代人の観念を示しています。現代においても”お墓”が何故石を使うかとの問いの答えになるのです。よく似た話は東南アジアに広く分布しています。

道祖神が石で表されることは、境界的な意味合いが強いと考えられています。堅固で不動の永遠性をもつと同時に生命の根源という存在でもある”石”は、日本の民族の中で生命のあるものと生命のないもの現世界と死後の世界、地上と地下など中間に位置してふたつの異質の領域をつなぐ境界性をもち、二面性をそなえたものと考えられているのです。我々の祖先にとって自然の大地を構成する石は、生命力の根源であり神霊が宿るところであり永遠の象徴として宗教心を表現する素材でもありました。死者の墓が石で作られているように”石”は宗教とかたく結びついており人々の心のよりどころでもありました。

これからも人の心と石のかかわりが決しておとろえることのないようにしていきたいものです。