石屋のないしょ話

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しきたりやお作法

しきたりやお作法という言葉を聞いただけで拒否される方もいらっしゃるかもしれません。また、虚礼廃止という名の下に、すべてを簡素化しようとする考え方もあるでしょう。

しかし、しきたりやお作法というものは、決して虚礼ではありませんし、前近代的なものの考え方でもありません。人と人とが暮らしていくための潤滑油のような役目があるのです。

遠い昔の京都人が暮らしの中から考案され、長い歴史の中で色々と、より良きように工夫し、今日まで伝えられてきた京都のしきたりとお作法は、そのいずれを取り出して考えてみても、人と人のふれ合いと結びつきを大事にするという発想がベースとなって行われてきたものばかりで、すべての心は同じところに通じていると思います。

しきたりやお作法は、自分が恥をかかないためにあることは言うまでもありませんが、それ以上に先様(相手)の心を思いやる大切さ、先様に無礼、失礼にならないために、また先様に恥をかかせないために存在しているのです。

この儀式のこの時には、このように事を運ぶといった完成されたしきたりとお作法、それを現代的に勝手な解釈をしてアレンジしてしまうと、かえって話が難しい方向へと発展し、ひいては先様まで混乱させてしまう結果になると思います。

古来より受け継がれてきたその本当の意味と意義を十分に理解し、大事にすることが、人と人とのつながりをより一層強いものに高めていくのです。

しかし、人とのふれ合いといっても京都のそれはべったりとしたお付き合いではなく、自分を少し引いたところで相手を立てるところが他所とは異なるのです。一般的にイメージされるものより、京都のしきたりとお作法は現代的でスマートなものなのです。

ですから、京都には風習・風俗・民族といった言葉がやぜか当てはまらないようにも思います。いくら親しくなっても他所でみられるような奥座敷まで上がり込むといったものが京都にはありません。自分の領域をきっちりと守りながらおつき合いをしているのです。

「京都人のおつき合いは敷居の上」という言葉がありますが、その通りなのです。敷居の中に入ればあつかましい人になり、外に出ていると水くさい人になります。おつき合いはちょうど敷居の上(実際に敷居を踏むわけではありません、踏むのはマナー違反です)、入るでもなし、出るでもなしといったところがよく、これが京都流であり世界に誇る都の感性だと思います。

ご参考までに・・・。