石屋のないしょ話

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天使突抜

春の日差しが心地よくなってきましたね。 皆さんはお花見に行かれましたか? 今月は京都市内にある、大胆な地名「天使突抜てんしつきぬけ」についてお話しします。

京都の中心部を東西南北に貫く通りは、古くは平安遷都の際につくられたものと、新しくは豊臣秀吉の京都大改革の際につくられたものです。 そのため、いまでも市街地の通りにはその当時につけられた古くて面白い地名や通り名がたくさん残っています。
その変わった通り名、町名の代表格が「天使突抜」です。 下京区の西洞院通と油小路通の間の南北の通りが「天使突抜通」です。 
この通りに沿って「天使突抜」から「天使突抜四丁目」まで四つの町が南北に長く並んでいます。 

この名は、豊臣秀吉の強引とも言える所業の結果です。 この近く西洞院松原を下がったところに五条天神宮があります。 平安遷都の年、弘法大師が都の鎮護のために創建したといわれ、かつて「天使の社」と呼ばれていました。 この天神宮の祭神は大己貴命・少彦名命・天照大神の三神で、天から降った神であることから「天使」とされたのです。 天神宮から清水寺までの五条大路は、平安時代の京都でも最も賑わった通りで、清水寺の観音様と五条天神の天使さまがとが当時の民衆の信仰の双璧だったのです。 

ところが、一五九○(天正一八)年、天下統一を成し遂げて関白となった秀吉は、京都の大改革を強引に推し進めました。 東西南北に新しい通りを貫通させて短冊形の町をたくさんつくりました。 そのため、寺の多くは京極大路に移転を余儀なくされたのです。 五条天神は移転することは免れましたが、一本の道が境内の中を貫通することになってしまいました。 秀吉は、弘法大師が建てた天神宮を串刺しするかのように、道を通して境内を真っ二つに割ったのです。 天神を信仰してきた人々はこの秀吉の所業にあきれ果て、また恐れをなしたそうです。 そして新い通りの両側にできた町に皮肉を込めてつけたのが「天使突抜」という地名なのです。 その後、五条天神宮は一八六四年に蛤御門の変で本堂が焼失。 その後再建されましたが、明治以後は区画整理によって境内は狭くなり、現在はビル街のなかにひっそりとたたずんでいます。

石屋のないしょ話でした・・・。