石屋のないしょ話

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東洋のハリウッド

京都市の西部・太秦とその付近には、明治末期から大小さまざまな映画撮影所が並び立ち「東洋のハリウッド」と言われて大活況を呈していました。 今月は京都で映画撮影所が発展した理由についてお話します。 

太秦に近い並が丘の地には、日本キネマ・東洋現像所・蚕の社にJO現像所、御室にマキノ撮影所、太秦には日活・大映・松竹・阪妻プロ・千恵蔵プロなどの撮影所があり、さかんに映画製作が行われていました。 太秦は、古代・朝鮮半島より渡ってきた豪族・秦氏が本拠地とし、織物業や酒造りなどを発展させたと言われています。 その太秦が、なぜ映画の中心地に成り得たのでしょうか? 

日本に初めて映画の技術がもたらされたのは、一八九七(明治三○)年のことです。 この年、シネマトグラフを日本に持ち帰ったのが、京都在住の稲畑勝太郎でした。 稲畑は京都モスリン紡績会社の監査役として、最先端の染色技術を学ぶためにフランスに留学しました。 当時、京都では殖産興業に力を入れ、とくに織物業の育成に必要な技術を習得させるために、留学生の派遣に熱心でした。 帰国後、稲畑は西陣の地に稲畑染料店を開業しますが、それと同時に、リヨン大学の同級生だったリュミエール兄弟がつくったシネマトグラフの映写機と興行権を譲り受け、日本に紹介したのです。 その後、稲畑は友人の横田永之助に映画の興行権を譲り、横田は「横田商会」を立ち上げて全国で巡業をはじめました。 やがて、空前の映画ブームが日露戦争によってもたらされます。 戦意高揚のため、従軍カメラマンの実写フィルムが上映されだし、京都では次々に常設映画館がつくられていきました。 横田は後に「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三とともに、チャンバラ劇の映画製作をはじめ、一九一○(明治四三)年に映画撮影所を今の二条城近くにつくりました。 
 
それから太秦近辺に、続々と撮影所がつくられていくのですが、太秦が撮影所建設地に選ばれたのは、この付近は秦氏が開発した織物業が盛んな地で、時代劇に必要な着物や衣装・小道具・カツラなどの生産拠点があったことが大きいと伝えられています。 さらに、太秦の近くには嵯峨野・保津峡などの自然が残り、歴史的寺社や風光明媚な場所が多かったので、時代劇撮影に適していたこともあります。
 
さらに、関東大震災で東京の撮影所が被災したため、東京から撮影所が次々に移ってきたこともあり、大正時代末には太秦は「東洋のハリウッド」となったのです。

石屋のないしょ話でした・・・。