石屋のないしょ話

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二つの二条城

二条城は世界遺産にも登録されている、観光客の絶えない京都の代表的なお城の一つです。 中京区の二条通堀川通にあり、四○○メートル四方の広大な平城です。 今月はその二条城がもう一つ存在したことについてお話します。 

現存する二条城は、一六○二(慶長七)年、関が原の戦いに勝利した徳川家康により、上洛時の宿泊所として着工されたものです。 翌一六○三(慶長八)年三月には落成し、征夷大将軍に任ぜられた家康はさっそく二条城に入城し、以後、三代将軍家光までは将軍の居城として使われました。 その後、徳川将軍が二条城に入城することはなく、幕末までの歴史の舞台から姿を消してしまいましたが、一八六七(慶応三)年、大政奉還が行われました。 奇しくも徳川家の日の出と日の入りの舞台となったのです。 

もう一つの二条城は、織田信長が室町小路と勘解由小路かでのこうじが交わるあたりの二条坊に、将軍足利義昭のために築城しています。 信長は天下取りのために足利義昭を擁立して上洛しましたが、一五六九(永禄一二)年、三好三人衆に義昭が襲撃されたため、二重の堀や三重の天守のある城郭を防備のために造営しました。 現存する家康の二条城に負けず劣らず広大で豪壮なお城だったそうです。 ところが、義昭と信長の関係は悪化しました。 一五七三(元亀四)年、義昭は信長に対して挙兵しましたが、二条城は信長軍に包囲されて一戦も交えずに落城し、義昭は追放され室町幕府は滅びたのです。 この際に、御殿などが兵士によって破壊され、天守や門は解体されて安土に運ばれ安土城に転用されたといわれています。  

二条城の残骸は土中に埋もれることになり、一九七五(昭和五○)年、京都市中を南北に走る地下鉄烏丸線の工事の際、土中から二条城の石垣・堀の跡・石仏・五輪塔などが発掘され、信長が建てた二条城が確かに存在したことが実証されました。 地下鉄烏丸線に乗ると、ちょうど丸太町通りを通過するあたりに、信長の二条城が建っていたことになります。 現在は平安女学院の敷地の一角で、「旧二条城跡」と記された石碑が建つのみとなっています。

石屋のないしょ話でした・・・。